Dharmesh Shar氏がCTOを務めるHubSpot社は2006年の創業以来、有益なコンテンツを通して、商品・サービスの購入につなげるユーザ主導のマーケティング手法「インバウンド・マーケティング」を提唱している(※1)。同社は、社名と同名のクラウド型マーケティング統合プラットフォーム「HubSpot」を開発し、SaaSビジネスを世界中で展開。2016年現在で95か国以上21000社以上の企業で採用されており、世界で最も人気のあるマーケティング統合プラットフォームとなっている。HubSpotのローンチから節目の10周年を迎える今年のINBOUND2016において、基調講演に登壇したShar氏は、この四半世紀でウェブ技術の進歩がビジネスにもたらした変化と、今後の革新について語った。
Shar氏は、直前にプレゼンしたもう一人の共同創業者であるHalligan氏のキーノートのポイントを、「変化」との向き合い方を文化人類学的に説明したものであると解説したうえで、自身の話はテクノロジーを主題にしたものであるとし、まずこの四半世紀のウェブ技術の進化の軌跡について語り出した。
Shar氏は、ウェブ技術の進歩を4つの大きな波で捉えて説明した。1つ目の波は1994年以降Googleが台頭するまでの時期、つまりNetscapeブラウザがリリースされ、インターネットの普及がはじまった時期である。この時期には、大量の情報がウェブサイトというかたちで生み出され便利になったのだが、同時に大きな問題も発生した。得たい情報がウェブのどこかにあることはわかっていても、そこに行きつく手段がないという問題だ。そこでAltaVista、YahooあるいはGoogleといった検索エンジンが登場しユーザの問題を解決した。
第2の波はGoogleが検索エンジン市場で圧巻したことであると氏は続ける。今日、検索と言えばGoogle、Googleと言えば検索といった状況が生み出されている。事実、Googleを利用した検索は一日あたり35億回にものぼる。これは途方もない数字だが、Googleがここまで独り勝ちする状況は当初は予測できなかった。Google以外の検索エンジンもウェブサイトをクロールしてインデックスし、データを整理していることに変わりはない。Googleが検索エンジン市場で勝ち残った理由はどこにあるのだろうか?Shar氏によると、Googleの勝因はデータを解釈・解析し、ウェブの「リンクグラフ」をつくりあげたことにあるという。Googleは単なるウェブページの情報だけでなく、それぞれのウェブページの関係性(具体的には「被リンク」)も把握したのだ。
第3の波はFacebookである。Facebookは秀逸な写真共有サイトであると同時に、1日に20億回も利用される検索エンジンでもある。ただし、そこで検索されるのはモノではなくヒトである。Facebookがウェブで描いたのはヒト同士の関係をあらわす「ソーシャルグラフ」であり、それはプライベートなデータである。Facebookは、ヒトに着目することによりGoogleを含む既存のサービスが成しえなかったシステムを構築したのだ。
さて第4の波、Amazonが形成したものは何だろうか?Shar氏は、Amazonが築いたのは「プロダクトグラフ」であると説明した。Amazonはどの製品が購入されるか、誰が購入するかを把握しており、このことはAmazonが市場での競争上、非常に強いポジションを得ていることを意味する。事実、製品を検索する際に、米国の半数以上の買い物客が最初に訪れるのはAmazonのウェブサイトである。そして今日では、検索をしに行く場所が変わりつつあるのと同様に、どこで検索するかも変わりつつあるという。ダイニングルーム、車の中、あるいはまもなく頭の中(ワイヤレスデバイスの利用)でなど、あらゆる場所での検索が可能になりつつある。この変化への対応が必要となるだろう。
Amazonが形成した「プロダクトグラフ」
ウェブの世界が経験してきたテクノロジーの変遷を4つの大きな流れに着目して解説してきたが、一方で今後変わらないものがあるとShar氏は述べる。それは「HEO(Human Enjoyment Optimization)」、つまりユーザが感じる楽しさを最適化することが、「SEO(Search Engine Optimization)」につながるという考え方である。Googleはいまや、「リンクグラフ」を「エンゲージメントグラフ」(※2)に発展させている。Googleの保有するデータは単なるウェブページに関しての情報でなく、コンテンツとユーザの関係性を読み解くための証拠になる。例えば、ユーザが検索結果として表示されたウェブページにアクセスしたにも関わらず、すぐに直帰したというデータは、そのページはコンテンツの質が低く、ユーザのエンゲージメントを得にくいということを示す。また逆に、ユーザがそのページに長く留まった場合は質の高いコンテンツということになる。
Shar氏は、ユーザのエンゲージメントをより高めるという視点からみると、ブログをはじめ、あらゆるコンテンツはオーディオデータに自動的に変換されることが非常に有効であると言う。ユーザは基本的に「移動」する生活をおくっているため、「読む」ことよりも「聴く」ことにより大きな需要があるというのがその根拠である。そして当然、その背景にはスマートフォンの普及がある。
スマートフォンが普及したことにより、私たちの生活は「タッチ&スワイプ式」に一変したわけだが、想定外だったのはアプリの台頭である。スマートフォンの普及当初はインターネットブラウザがより存在感を増していくと考えられたが、それは誤りだった。デジタルライフにおいて、実に80%以上の時間は一握りのトップアプリ(残念ながらあなたが開発したアプリではない)に費やされているのが現状だ。
なかでもユーザがスマートフォンで多くの時間を費やしているのが「メッセージングアプリ」と呼ばれるものである。(※3)。代表的なメッセージングアプリであるFacebookメッセンジャーは10億人ものユーザを獲得している。また、メッセージングアプリの利用はプライベートな部分に留まらず、ビジネスシーンにも拡大しており、Slack、Microsoft Teams、Facebook Workplaceといったビジネス向けメッセージングアプリも数多くのユーザを獲得している。Shar氏は、メッセージングアプリがビジネスで普及していくことによる変化として次の3つを挙げる。1つ目は、メールアドレスが使われなくなることにより、顧客リストの購入や一斉メール配信が実行不可能になるということだ。このような状況下では、一つの選択肢に過ぎなかったインバウンド・マーケティングが必須のものになっていくだろうとShar氏は主張した。2つ目の変化としては、メッセージングアプリの普及を活用すれば、より適切なメッセージを送ることで顧客とのあいだにより強い関係を築くことが可能になるということが挙げられる。そして3つ目の変化は、全く予期しなかったことを引き起こす――それが「(チャット)ボット」である。
Shar氏のウェブ技術についての話は、ここから過去を読み解く解説から未来予測へと移っていく。これから5~10年のあいだで起きる近未来の話だ。
「ボット」とはテキスト、音声など会話を形成するために利用されるソフトウェアサービスと定義されるが、Shar氏は、これが今後の技術革新の流れの中で最大の存在になっていくと考えている。「ボット」によって、よりインタラクティブで自然なインターフェースが実現できるようになるからだ。また時折心配されるような「人間 対 ボット」というような対立構造は誤った考え方であり、ボットは本来的に人間に役立つ技術だと氏は考えている。そういった思いからHubSpot社が同社の研究開発機関であるHubSpot Labで次世代ボット(HubSpot GROWTHBOT)の開発を進めていることを紹介した。
ユーザはボットを利用するにあたり、ダウンロードなど面倒なセッティングは一切必要なく、メッセージングアプリでリクエストをボットに送るだけで良い。氏はボットが具体的にマーケティング担当者、営業担当者および顧客にとってどのように役立つかについて詳しく説明を続けた。
まずはマーケティング担当者が享受できるベネフィットについて。例えばブログ記事の良いアイデアを思い付いて投稿する場合、従来であればウェブアプリやブログツールを利用したであろう。タイトルをつけた後に本文を入力し、ファイルを保存して公開という作業が必要である。ボットを使うと、この時間のかかる一連の手順が不要になる。ボットに着想したアイデアを送るだけで良くなる。また、分析に関わる業務の生産性も向上する。例えば、ウェブサイトのトラフィックの昨対比を知りたいとき、従来なら、いくつものCSVファイルをダウンロードしてエクセルなどで集計する必要があった。ボットがあれば、メッセンジャーで「ウェブサイトのトラフィックの昨対比を知りたい」とリクエストするだけでグラフが即座に提示される。次に営業担当者のベネフィットについてはどうだろうか。例えば、見込み顧客をデータベースから抽出する場合を考えてみる。ボットがあれば、メッセンジャーに抽出条件を入力するだけで即座に適合する顧客リストが提示される。CRMへの登録もメッセンジャーを通して簡単にできるようになる。
今、挙げたことはいずれもボットがユーザの直接的な指示に答えるという機能だが、ボットの真価は、バックグラウンドでユーザに成り代わって仕事をする能力にある。マーケティング担当者の例で考えると、そのマーケティング担当者の関心領域にマッチするブログ記事が話題となっている場合、ボットが自動的に記事を収集してきて、ブログ記事のネタとして組み込むか、単に資料としてメールするかなど次のアクションを確認してくるといったことが可能になるという。また、投稿した記事のコンバージョンが高い場合は、広告についての提案をもちかけてくるようにもなる。一方、営業担当者に対しては、ボットが電話営業の進捗確認をしてくれるといった未来が実現する。担当者はボットの質問に対して入力または返事をするだけで良い。シンプルだが非常に強力な機能だ。
最後に、Shar氏はボットが顧客にどのように役立つかについて説明した。ウェブサイトが誕生した経緯を思い返してみよう。生身の営業担当者は毎日24時間、顧客からの質問に対応することはできない。これを可能にして顧客サービスを向上するためにウェブサイトは普及してきた。これをさらに便利にするのがボットだ。顧客がウェブサイト上を探し回らなくても、ボットはユーザのメッセージ/音声入力に直接対応することができる。今後はボットが顧客からの質問に最速の回答をするための手段となるだろう。ただし、ボットはウェブサイトを完全に代替するということではなく、メッセージアプリと共存しつつウェブを強化しながらユーザに浸透すると推測される。
Shar氏はボットについてもう少し踏み込み、その基盤技術について説明を続けた。ボットの機能は、「人工知能(A.I.:Artificial Intelligence))のなかの一技術である「機械学習(Machine Learning)」と呼ばれる技術に支えられている。これにより、コンピュータは明示的にプログラミングされなくても、自ら学習することが可能になる。
「機械学習」により、予測的リードスコアリング、コンテンツレコメンデーション、Eメール配信時刻の最適化といったことも可能になる。また、見込み客と営業担当者のマッチングといった、一般的ではないけれども実は魅力的なことも実現される。今挙げたことはいずれも「自動化」に関する機能である。自動車の分野では「自動運転車」がまもなく登場すると言われている。運転では大量のインプットをもとに次にとるべき正しい判断を求められるが、こういった処理はコンピュータのほうが人間よりも得意としている。同じ理由で「自動運転型のマーケティングオートメーション」が登場するのも時間の問題だろうと、Shar氏は言う。課題はアルゴリズムではなくデータをどこに集中管理するかにあるという。Shar氏は講演の最後に、前半に登壇したHalligan氏も自身も「変化」について話をしてきたと基調講演を振り返り、「認識(Recognize)」⇒製品化(Productize)⇒共有化(Democratize)」から成るHubSpot社の変化対応サイクルを紹介した。また、Shar氏自身は何十年もソフトウェア開発に携わり、やりたいことがどうしたら実現できるかを考えてきたが、ボット、機械学習、人工知能などでイノベーションが起きれば、コンピュータに実現したいことを頼めば良い、そのようなマジカルな時代が来るかもしれないと講演を締めくくった。